情報知識学会ニューズレター > No.42 (1997.2.1) > パソコン通信をめぐる美学的反省

パソコン通信をめぐる美学的反省

成城大学 宮川 達

 パーソナル・コンピュータ(以下パソコンと略)あるいはパソコン通信の学術的利用について、美学の立場から考察することが、本稿にあたえられた課題である。美学とはesthetiqueつまり感性学──感性についての学問──であり、わたしはなかでも、従来の美学思想のなかで〈低級感覚〉と卑しめられてきた触覚・味覚に積極的な意義を見い出すことを主題としてきた。この立場を標榜するわたしが、身体性を欠くと思われるパソコン通信を実際に使用しながら、これら相容れないふたつの傾向をどう調和させ、あるいは超克しているのかを論じ、さらにパソコン通信の学術的利用の有意義性を論ずることが、本稿には期待されているのだろう。

パソコン通信は、たしかに学術的利用において有意義だろう。調査・資料収集の側面から見れば、美学においても、とりわけ古典研究などにおけるテクスト・クリティックのデータ・ベースとして利用価値がある[1]。さらに美学の哲学的側面、なかでも対話dialogueがその有効な手段であると思われるphilo-sophie(愛智)の側面からいえば、たとえばNIFTY-Serveのフォーラムやホームパーティーなどの電子会議室の利用は有意義であるように思われる[2]。

そもそも、わたしが低級感覚を主題にするといっても、それがただちにパソコン通信の学術的利用を否定することにはならない。なぜなら、パソコン通信を学術的利用の側面から問題にするということ、つまり学問の〈方法〉として問題にすることと、パソコン通信そのものを学問の〈対象〉として扱うこととはちがうからである。美学が理性logosではなく感性を、あるいはときに低級感覚を扱うとしても、学問である以上、それはことわりlogosによって反省 reflexionされ、ことばlogosによって提示されなくてはならないのであるから、きわめてロゴス的なパソコン通信を、方法として利用することとは矛盾するものではないといえよう。

パソコン通信の学術的利用については、現在のところ、とくに異論はない。しかし、パソコンないしパソコン通信そのものについては、それを対象とした美学的反省も必要かもしれない。その際まずは、つぎのような問題が考えられる。

  1. パソコンそのもののもつ身体性の問題
  2. パソコン通信における身体性の欠如の問題題

第2の問題は、手書き文字がただ意味内容を伝えるだけではなく、言語化・分節化(ロゴス化)しえない情感あるいは身体性を伝えうるものとして、書き手と読み手のあいだに濃密な関係を作り上げると考えられるのに対して、パソコン通信にはこれが著しく欠落しているということである。しかし、この問題はなにもパソコンの普及に始まったことではなく印刷本の普及から始まっているだろう[3]。さらに、第1の問題もパソコン以前にワープロの普及をみる以上、いまさら論ずべきことでもないだろうし、この問題だけを扱ってみても、ワープロとはちがうパソコンの特性には論及しえないことになるだろう。

では、問題の所在はどこにあるのだろうか。わたしは、パソコンがもっぱらロゴスあるいはそれに親しい視覚にのみ依存する機器でありながら、ひとびとがパソコン通信、とりわけある範囲を超えて相互につながっているinter-netをこそ、世界に開かれた唯一の窓と信憑しているところに問題の所在をみたいと思うのである。

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 近代的意味での芸術の特徴は表現representationにあると考えられる[4]。

プラトンにおいて芸術は、われわれの意識を真なるイデアideaへと送り届けるべきものであり、またキリスト教中世美術におけるイコンiconも、そこに意識をとどめてはならず、それを通してわれわれの意識が神へととどけられるべきものでなくてはならなかった。芸術とは絶対的なるものにわれわれの意識を送り届けるもの影像eikonあるいはその可能な限り忠実な模倣imitationでなくてはならず、それゆえ、eikonの作り手、模倣者には、われわれの意識を引き留めないほどに透明であること=みずからの存在を抹消することが要請されていた。

15世紀の線遠近法は、確実に作り手の視点、位置を特定している。ここに〈作者の誕生〉をみることができる。現前presenterする世界を再構築し、もう一度それを現わし出すことre-presenter。それが〈表現representation〉にほかならないが、しかしそのためにはこの再構築の基盤、根拠となる〈作者〉の確立、つまりは近代的自我の確立をみなくてはならない。

デカルトが『方法論序説 Discours de la methode』(1637)によって差し示したことは、われわれに現前presenterする世界をいったん、方法的に懐疑・否定した上で、論理的 logiquementに再構築することであった。その基盤=〈考えるわれ〉こそが、〈作者の誕生〉を可能にした〈近代的自我〉にほかならない。

ところで、数学的・合理的logiquementに計算し尽くされたはずの線遠近法も、じっさいには人間が感覚にしたがって微妙な修正を加えなければならなかった。アンリ・ベルクソンは、「われわれは、もっともみごとな推論が、ただひとつの経験の前に消え去ることを目撃する」[5]]という。経験論者の彼にとっては、合理的な推論よりも経験が優位に立つのである。彼はまた、プラトンのイデア──われわれの外にあって永遠不変で絶対的なもの──を認めず、それをわれわれが経験を通じてみずからが構築する類型typeに置き換える[6]。プラトンに先立つエレア派が絶対的な真理は永遠であり不変のものであると考えたために、哲学は、この絶対的なものを認識しようとして知性logosをいたずらに重んじ、さらには本来われわれには兼ね備わっていないなんらか特殊な認識能力を探し求める不毛の営みに陥ったというのである[7]。われわれが世界を認識できるのは、ただ経験、それも感覚器官を通じての知覚によってこそであると彼はいう。

近代以降、自我は自らを認識するために自らが再構築する世界を再現前化してきた。ベルクソンもそれは否定しないだろう。しかし、その再現前化におけるデカルト以来の理性logos偏重の傾向──近代の芸術においてはロゴスに親しいとされる高級感覚=視覚・聴覚のみが純粋であるとされた──には意義を唱えるに違いない。ベルクソンに倣えば、おそらく芸術とは、われわれが経験、つまり感覚的知覚を通じて構築する類型なり世界観──それは知覚心象の総体ということになるであろう──を外化・客体化してそれを感覚的に認識するところにあることになるのだろう[8]。

***

 パソコンに向かうと、ときが経つのを忘れてしまう。われわれはしばしば、そのような経験をするだろう。それが高ずれば、パソコン以外の外界を遮断し、ひたすらその誘惑に没頭し、我を忘れることになるだろう。忘我ek-stasisとは現実にこの日常的な生活を生きることを忘れるばかりではなくて、なんらか人間を超越した神的な力に取りつかれていることをも意味するだろう。パソコン通信に取りつかれるひとにとって、このパソコンという窓の向こうに広がる無限の世界こそが、なんらか人為を超えたもの、神的なるものになるのだろう。

このとき、われわれはふたたび、絶対的・神的なるもののまえに、自らを透明にしてその模倣者となりうるのだろうか。おそらくそうはなりえない。自我を確立したという記憶はけっして拭いさられない。われわれはわれわれの前に広がるこのパソコン通信/inter-netの世界を取り入れて、これを再構築することによって自らの自我を確立してゆこうとするだろう。

近代的自我は現前する世界の論理的logiquementな再構築にあった。再現前化がいかに論理的logiquementになされようが、しかし、われわれの世界はわれわれの感覚的知覚の前にこそ現前する。

パソコンはもっぱら視覚にのみ収斂する機器であり、ことばのやり取りに終始するものであるだろう。たとえ画像や音声が伝えられるとしても、それは機械的な信号にいったん変換されたものであるにちがいない。いずれにせよ、これらは抽象化の営みに親しい、あるいはそれを経ているということを意味している。ベルクソンは抽象化の営みを全面的には否定しない。なぜならば、抽象化の営みがあればこそ、われわれは言語をもって社会生活を営むことができるのであるし、科学の進歩はこの抽象化なくしてはありえなかったからだ。

しかしながら、言語というより効率的な手段があるにもかかわらず芸術という営みがつづいてきたということは、言語によってすくいきれないなにかがあったからにほかならない。ベルクソンは抽象化とは切り取りeliminer(あるいは切り捨て)であるといい、むしろ、そのようにして切り捨てられたもののうちにこそ、根源的なものがあると主張する[9]。とすれば、パソコン通信にのみもとづいて世界を再構築しようという営みがきわめて貧弱で一方向的なものになることは避けられないだろうし、また、根源的なるものを欠いたものになることも避けられなくなるだろう。

しかしより深刻な問題は、はたしてそのようにしてパソコン通信に基盤をもちつつ、完結した自我を確立させうるのかということであろう。

近代的自我が成立しえたのは、無秩序な世界に秩序logosを持ち込めばこそであった。神に基づく秩序を人間の秩序に置き換えるということによってこそ、近代的自我(人間中心主義humanisme)が成り立ったのである。ヨーロッパの森は人間のロゴスが及ぶ以前に暗黒であったのであり、ロゴスを及ばせることによってこそ開かれたのだ。ところが、いま、パソコン通信によってわれわれの前にある世界は、人間のロゴスが作り出したものであるにもかかわらず、われわれにとって、われわれを超えた世界、暗黒と化している。〈方法〉が〈対象〉化され、明晰判明なロゴスがロゴスの及びえないカオスを作り出している。

近代的自我は崩壊しつつあるのだろう。ロゴスを信奉する〈近代的〉自我に執着するつもりはない。しかしひとびとは、わたしとはなんであるかを問い続けてゆくだろう。表現representationとしての芸術も、跡絶えることはないだろう。自己増殖し人為を超えたロゴスを秩序づけるものは、もはやロゴスたりえない。なにがわれわれをわれわれたらしめるのだろうか、非ロゴスの低級感覚だろうか。それはわからない。

ベルクソンは物質をわれわれのエランelan(生の躍動)を妨げる抵抗であると同時に、その抵抗を乗り越えられない生のエネルギーが蓄えられ、その炸裂をより大きなものにするものだと考えた[10]。パソコン通信はロゴスの最たる権化であるだろう。この抵抗にあってわれわれはロゴスを乗り越えるわれわれのエネルギーを蓄え、いっきにこれを炸裂させることができる──楽天主義者・ベルクソンは、そういうかもしれない……

引用文献

データがどの程度加工されて提示されるべきかは議論の余地があるだろう。

ホームパーティーなどの利用は教育上も有意義である。0演習形式の授業などでは、どうしても時間が限られてしまったり、議論に流されて充分反省をすることなく済ませてしまうことが多い。これを補うのにホームパーティーの利用は効果的であるが、教師側の負担増の問題があるほか、私信化しがちな傾向の前で、どう公平さを保つかということが問題になってくるだろう。これらの問題に加え、現在の大学教育においてはむしろ身体生の回復が求められるであろうから、全面的にパソコン通信に依存べきではなく、あくまでも補完的な利用にとどめるべきだろう。

最終更新日: 2018-04-27 (金) 11:23:30

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